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自分たちが力を合わせて立ち向かっても、どうにもならないものがある。
ならば、そこはなるべく見ないようにして、自分の身近なテリトリー(恋愛)に関心をもったほうが楽でいられる……団塊より一世代下の男女が、70年前後に「三無主義(無気力・無関心・無感動)」を決め込み「シラケ世代」と呼ばれ始めた最大の原因は、そこにある。
では60年代当時から、すでに男女は堂々と恋愛できる環境にあったのか。
「声に出して言いにくい時代」「私も本当は恋愛結婚なの。でも声を大にしてそうは言いにくい時代だった」そう話してくれたのは、30代の娘をもつ専業主婦のB子さん(現70歳)だ。
私か代表を務めるマーケティング会社・Iンフィニティは、04年秋、おもに現60〜70代の女性とその娘(アラフオーや団塊ジュニア)約400人から成る母娘のコミュニティ「マンマーFイーリアー・」を設立。
06年、S水ハウスと二社共同で「カーサーFイーリア 娘と暮らす家」という名の住まいを開発するまで、1対1で母娘の本音を聞く、という徹底したインタビュー取材を繰り返した。
その過程で飛び出したのが、B子さんの発言だ。
私か驚いて「なぜ、恋愛結婚だと言いにくかったんですか?」と聞くと、B子さんの近くにいたC、D、E子さん(いずれも70歳前後)は「当たり前のことを聞くな」とでも言いたげに、こう言った。
「そういう時代だったのよ」「そういう時代」と評するのは、言うまでもなく「恋愛している(いた)とは言いにくい時代」のこと。
現70歳の女性は20代で結婚していたケースが大半だから、結婚年齢から逆算すると、まさに60年代がその時代にあたる。
彼女たちは、おもに大学や職場で現在の夫と出会っていた。
ただ、結婚式では「二人(夫婦)は、媒酌人である○○様を介して知り合い〜」と、後付けのように「きっかけは誰かの紹介だった」と表現されることが多かった、という。
のちにグループインタビューなどで裏をとったところ、都市部においては「恋愛が後ろめたい」との見方は比較的弱かったようだ。
ただ少なくとも、60年代ぐらいまでは「そういう時代」の片鱗があったようだ。
″タブー”の象徴? Mンローと小川Rーザ なぜか。
おそらく、恋愛の延長線上には「性交渉(セックス)」が存在するから。
60年、一冊のセンセーショナルな本が発刊され、ベストセラーになったという。題して、『性生活の知恵』(C国権/I田書店)。
版元のI田書店は、この本のヒットで自社ビルを建てたとの逸話もあるほど。
「妊娠のための性交ではなく、快楽のための性交(性愛)はどうあるべきか?」を表現した一冊がこれほど売れたのは、とりもなおさずこの時代に初めて、性愛や性の快楽が表立って語れるようになった証し、とも言えるだろう。
ではこの時代、完全に性は解放されたのか?もちろんそうでないことは、当時の映画やCMを振り返れば分かる。
たとえば、50年代後半に封切られたマリリンーMンロー主演の映画『七年目の浮気』と、69年に小川Rーザを起用した「オー、モーレツー」(M善石油)のCM。
いずれも、Mンローや小川Rーザの白いスカートがパーツとまくれ上がるシーンが、見る者に大きな衝撃を与えた。
裏を返せば、それだけ「女性のスカートの中を覗く」ことがタブーだったわけだ。
日本でビキニの水着が一般に広く着用され始めたのは、70年代に入ってから。
成人映画「N活ロマンポルノ」の誕生も、71年のことだ。
60年代まではまだ、性をイメージさせる恋愛や表現を″一種のタブー″と見なしていた感が強い。
男女の性行為をコントロールする社会、その手前の、40年代半ば〜50年代はどうだろう。
47年に発表された小説『青い山脈』(I坂洋次郎)のあらすじには、「男女の自由恋愛を汚らわしいとする古い因習に立ち向かう、若者たちの青春物語」とある。
この言葉から察すれば、当時の恋愛は″特技″どころか″非行″に近かった、と言えるかもしれない。
100%、タブーの領域だ。
他方の結婚・出産はといえば、第二次大戦直後のこの時期、大きな転機が訪れた。
それは、46年に公布された日本国憲法。
第二次大戦中(40年代前半)に結婚した私の祖母(従軍看護婦)は、「一度も祖父と顔を合わさぬまま、親が″親同士の見合い″で結婚を決めた」と笑って話していた。
当時はそんな結婚も、珍しくなかったようだ。
だが日本国憲法は、その第24条で「結婚は″両性の合意″のみに基いて成立し〜」ということだった。
親や親族が勝手に結婚相手を決めてしまう、といった戦前の婚姻制度に、事実上のピリオドを打ったのだ。
感情的にも、男女の「結婚したい」「子作りしたい」との思いがピークに達したのが、戦争直後のこの時期。
当然だろう。
戦地に行って留守だった夫や恋人との、久々の再会。
いやがおうにも、気分は盛り上がる。
当時生まれた団塊世代の人口が日本最大のボリュームゾーンなのは、言うまでもなくそのせいだ。
47年に生まれた子どもの数は270万人、現1・34人の合計特殊出生率は当時、4・54人にまで達していた。
婚姻率も40年代後半、現在の2倍にあたる10を超え(人口千対)、20世紀最大の結婚市場を形成した(厚労省「人口動態統計」)。
ただ当時、結婚のきっかけが「恋愛」だった男女はわずか2割弱、その恋愛結婚派の結婚とて、よく調べてみると″趣味化″した現代とは大きくニュアンスが違う。
その頃、結婚が半ば義務化されていたのは前述のとおりだが、もう一つ。
出生率が4人を超えていた当時、結婚の先には「出産」という必然があった。
戦時中の「(国のために)産めよ、増やせよ」の延長線上の価値観である。
さらに農村部では、別の後押しもあった。
子どもを貴重な″労働力″として、村全体で確保する必要があったのだ。
その象徴が「夜這い」。
念のため注釈を加えると、「夜中に性交を目的に他人の寝ている場所を訪れること」を言う。
いまの20代に話すと、「そんなの、聞いたこともない」「不法侵入じゃないスか!」と一様に驚く。
私自身もまったくリアリティをもって捉えることができないが、昭和30年前後(50年代半ば)まで、夜這いは村社会に欠かせない社会システムとして機能していたらしい(『夜這いの民俗学』(A松啓介/A石書店)。
ではナンのために?民俗学者のA松氏は、同書において「夜這いを介して父兄や母姉たちが自分の娘や息子、弟妹の筆下しや水揚げを依頼する場合があり……」と記している。
その先には、夜這いを機に村の女性が恋愛、結婚、妊娠(出産)へと至ることで、村にとって必要な跡取りや″労働力″を確保しよう、との考えがあった。
ただ夜這いとて、無規則に不法侵入できたわけではないらしい。
厳格な村社会において、その役を仰せつかるのは長老や年長者など、人間的にも信頼できる人物だった、とのこと。
男女の性行為さえ、村が一丸となってコントロールする閉鎖的な社会、そんな社会が1950年代まで、この国の一部に存在した。
もちろん、そこで重視されたのは″大恋愛″ではない。
あくまでもシステム化された結婚や出産、であったわけだ。
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